常總鐵道名勝案内

第1回

總説
常總鐵道は常磐線の取手驛を起點として、初め利根川に近く後鬼怒川に沿ふて溯り、守谷、水海道、石下、下妻の諸都邑を徑て水戸線の下館に連絡する線路にして、實に現在に於て茨城縣の南部を横断する唯一の交通機關なり、線路の全長三十二哩、此間取手より守谷を徑て小絹に至る八哩間に於て幾分の丘陵(寧ろ臺地)ありて森林の畑地と交わるものある外は悉く坦々たる平地にして豊沃なる美田遠く相連なり農桑の業最も發達す、斯くの如き土地とて自然の理として地方に早くより住民の繁殖あり、現今に於ても人口の密度統計上本邦の第二位に降らず、都邑頒布の度も亦他地方に比較して遙かに優位を占む、今日産出する沿道の農産物は最近の調査に夜に據るに一年の産額米三十五萬六千石、大小麥四十三萬七千石、雑穀二十萬石、生繭五萬六千石を算し、製茶及烟草は水海道の西方岩井地方を中心として葉烟草四十三萬八千貫匆、製茶六萬四千貫匆あり、黑子、大田郷附近よりは謂ゆる關本梨の産出あり其額亦一年四十萬貫匆に近し、商業は是等の農産物の取引を主として、發達せる附近農村に對する供給品の聚散も其額少なからざれば至る所相應に活撥に行はる、而してその中心地の主なるものとしては水海道町及下妻町等を推すべし、機業は石下及下館附近に於て特産の木綿の製出さるるあり前途有望を以て知らる。
斯くの如く我が常總鐵道の沿線地方は田圃十里相望む關東平野の中心を占むる地にして、素より一の山岳なく又海洋に近接する所あらず、されば下妻より三里を隔てて筑波山に登るの便を有するの外には遊覽地として蒼山碧渓の勝景を有せず、又海水浴、溫泉の保養地を缺くと雖も、利根の大江、鬼怒小貝の淸流は至る所明媚の風光に富み、跌宕豪侠の趣は之を觀されども悠優平雅の淸味は却て此間に之を求め得べく、一たび此に遊へば淡冶春日の如き觀に接すべし、若し夫れ史蹟を探りて往事の囘想に耽らんと欲するものにありては夙に人口の繁殖せし地方だけに、遠くは石器時代古墳時代の遺蹟より始めて近くは戦國時代の城址古戦場に至るまで到る所極めて豊富なるものあり、頻々として古英雄の餘影に接し得べし、就中天慶年間關八州を亂りて一時天下を驚動せしめし平將門が遺蹟は守谷を中心として其附近及水海道より程近き岩井を中心として其附近に數多く散在し、何れも好古家旅行家の踏査研究を待つべし、更に大寶關館方面に於ては延元興國間に於て准后親房卿を始めとして南朝忠誠の將士が孤軍大義を唱へて人心を鼓舞したる悲壮義烈の跡、昭々として千古に光輝を放ち今尚ほ人をして發奮興起せしむべく、國家の淸粹、正氣の發動の如何を知らんと欲するものの必ず一たび訪ねざるべからざる所なり、大寶八幡と金村雷神とは地方民衆の尊崇最も厚き所、黑子千妙寺と飯沼弘經寺とは寺院の最も大なるものにして又頗る由緒に富めるものなり、親鸞聖人の靈跡及その門下六老僧の一なる明空上人の遺蹟は下妻並に其附近にあり、眞宗信徒の歸仰する二十四輩の靈場亦沿線に在るもの四五を算す、斯の如くにして宗教上の名域も少しとせず、祭祀佛會の特殊の慣習を有するものも亦二三にして足らず、其等は何れも各條下に述べたり、黄塵十丈の裡に繁劇の業務に従事せらるる都人士が一日の淸遊として利根川、鬼怒川に舟遊、釣魚、網漁を試み、或は沿道の林野に初茸狩、松露狩等を催すも時に應してとりとりの趣あるべし、東京より本線の最終點たる下館に至るも僅に三時間半を費やすに過ぎざれば日曜祭日の清閑を有利に應用して郊外の風光に浴せんとするものの為にも本鐵道沿線は最も好適の地たるべきなり。

取手(上野より二四哩、七分)
取手町は古く水戸街道の要衝なりし所にして現に茨城県の門口をなす地なり、街衢利根川に沿ふて東西に延び、廛肆擔を列ね【店が並び】旅客の来往繁く商業亦振ふ、今人口四千餘を有す、官署には北相馬郡役所、警察署、郵便局、裁判所出張所等あり、名産奈良漬は漬物の優としてその名遠近に聞ゆ。
利根川

利根川(南四町)
阪東太郎の名の偁するが如く東國隨一の大江にして流域廣く開けて眼界濶く、水色浩渺たる所常に往さ來るさの白帆の影映じ、風致絶好さながらに畫境なり、夏は舟を中流に泛べて涼を納るに宜しく、秋は岸に綸を垂れて魚を漁るに可なり、鮭、鱒、鯉は特に此河の名産として偁せらる。

長禅寺
長禪寺(東半町)
停車場の前面なる高丘の上に立つ、本と大鹿左衛門尉が砦址の一角なりといふ、文暦年中織部時平が創建せる所にして山號を大鹿山と名づく、近頃名僧護山禪師が留鍚垂教の遺跡なり、丘上に通ずるに幾百段の磴道を以てし、磴道盡くる所に樓門あり樓上に百體の觀世音像を安んず、故に俗に本寺を呼んで百觀音といふ、境内老松林立し樹影參差たる間より下瞰すれば取手市街の大半より利根河畔の風色を一眸の中に收むべく、遠くは雲烟の裡に富士山を望み得べし、實に眺望の勝地なり、寺に陰暦正月七日及七月十六日鐳鉢灸の行事あり、頭痛に効驗ありとし遠近より來り請ふもの尠しとせず、相馬八十八ケ所の内第一番及第八十八番の靈場亦境内に在り、順序巡拜の徒は此處に始まりて此處に終わらざるべからず、毎月陰暦廿一日賓客群をなす。
八十八カ所札所のうち三十四番及び四十五番

水戸烈公和歌碑(東三町)
取手町の舊家染野氏の庭内に在り、染野氏は舊本陣にして德川幕府の世、本街道を上下する諸侯の休泊する所なり、水戸齋昭公亦此に宿り自ら感懐を詠し石に刻して庭内に建てしむ、歌に曰く。
    さして行く棹のとりての渡し守
         思ふ方々とくつきにけり
當時の家屋と庭園と共に存す、特に庭園は後方の丘陵を利用し具に泉石の美を極めたるものなり。

源基喬碑(東六町)
取手町字臺宿藥師堂境内に在り、基喬はもと取手高等小學校長にして精神的教育家の範と推すべく、地方士風の涵養に偉大なる効積を遺せし人なり、明治三十五年自裁して死し遺書して遺骸を仙臺醫學専門學校に寄附し標本とせしむ、碑は及門の子弟遺風を景慕して建立したるものなり。

弘經寺(西八町)
取手町大字大鹿に在り、淨土宗の名刹にして下總三弘經寺の一なり、德川氏の世三十石の朱印地寄附あり、天正十九年淺野彈正少弼長政及木村常陸介重茲署名の禁制を藏す。

琴平神社(西十町)
同じく取手町大字大鹿前に在り、神域廣く深樹欝蒼四境を蔽ひ社殿神さびたり、地方人士の信仰厚く毎月陰暦十日參拜の人遠近より抵りて雑遝す。

本多鬼作左邸址(北十町)
井野村大字井野寺前に在り、俗に御墓山といふ、一小丘陵にして陵上松樹繁茂す、山頂中央方數十歩芝生地の所は卽ち作左衛門重次が墓なりと傳ふ、重次剛毅勇猛、德川廣忠、家康二代に歴仕して戰功多く世に鬼作左の名あり、後譴を家康に蒙りて上總の古井戸に謫せられ、更に此地に移りて井野村外二村を領し、慶長元年此地に歿すといふ。

本多重次及重玄墓(東十二町)
井野村大字靑柳本願寺に在り、重玄は重次の弟にして永祿元年寺部城の戰に戰死せしものなり、重次の墓は五輪の石塔にして重玄の墓は高四尺程の長方石なり、享保五年遠藤重正の修理あり別に碑石を建つ、寺には亦多くその遺物を藏す、同寺内に此外元應三年の碑及實德三年銘の鉦等あり何れも好古家の垂涎する所なり。

立木(たつぎ)明神(東二里二十町)
文間村大字立木にあり、延喜式に謂ゆる蛟蝄(みつち)神社は卽ち是れにして、德川氏の世まで社領五十石を有す、祠宇は二つあり、西なるを角の宮を呼び、東なるを奥の宮と稱す、その間六町餘の隔りあり、例祭は陰暦六月十五日及九月十五日にして、此日兩社の神輿を交替す、神事頗る古式を存し地方稀に觀るの盛典となす、來賽の人亦多し。

(続く) 

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