日枝神社_小町の里_朝日トンネル(茨城県石岡市、土浦市)

長いタイトルになりました。また、朝日トンネル通行の動画の関係で、読み込むのに少し時間がかかります。

今回はパラグライダーで有名な朝日峠の麓です。合併して石岡市になった旧八郷町と同じく合併して土浦市になった旧新治村の間にある朝日峠に、最近トンネルが開通したので訪ねてきました。朝日トンネルと言います。

しかし、この連載は、史跡などを巡ることが主なので、朝日トンネルのことは最後にしておきます。

このトンネルの石岡側口近くには「茨城県フラワーパーク」(写真1)があります。一方、土浦側口にはすぐ近くに「小町の里」(写真2)があります。そこでまず「小町の里」に立ち寄ってみます。

 
写真1 茨城県フラワーパーク 写真2 小町の里

「小町の里」の小町とは「小野小町」の事です。当地には、小町はこの地でなくなり、そのお墓であるという言い伝えのある石塔があるのです。そこで、この辺り(お墓という場所とは300mほど離れていますが)一体に観光施設が整備されています。

 
写真3 水車 写真4 小町文芸賞入賞作品(短歌)の碑

ここには直径7mと言われる水車(写真3)が回っています。また敷地内には、小町文芸賞入賞作品(短歌)の碑がたくさん建っています。あいにく訪ねた日(2013年3月22日)はまだ工事中で、本館には入れましたが新館はまだ立ち入り禁止でした。4月27日がオープンだと言うことでした。

写真5が工事中の新館、写真6はハイキングコースからの全景です。左手、屋根の黒く見えるのが新館です。朝日峠から飛んできたパラグライダーは写真6の右手に着陸します。

      
写真5 新館工事中 写真6 小町の里遠望

ハイキングコースには「小町の腰掛石」や「小野小町の墓」などが点在します。前者はかなりどうかと思いましたので後者を見に行きました。ところが、私有地内にあるので、理由はわかりませんが「見学ご遠慮ください」の看板がありました。まあ、本日のメインではないので引き返しました。ご覧になりたい方はYouTubeにありますのでどうぞ。

小野小町の伝説は日本各地にあるということで、ここもその一つでした。無理に小町伝説としなくともなかなか風情のよい所ですから、パラグライダーなどの施設の方がよかったのではないかと感じました。

さて、この近くに日枝神社があります(写真7)。日枝神社と言えば、昔の私の勤め先の近く(東京赤坂)にもありました。後に引用しますが、ここも明治時代に日枝神社とされる以前は、山王大権現といわれていたのだそうです。日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏混交の神ですね。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈により、山王権現は廃されて今の日枝神社になったのだと言うわけです。

写真右側看板の赤い字は小さすぎてはっきりしませんが「やぶさめ祭」となっています。一の鳥居をくぐると、長い参道が続き、ここで流鏑馬が行われる(2013年今年は4月7日)のだそうです。流鏑馬についての長い説明板もありましたから、あとの方で引用してご紹介します。

 
写真7 日枝神社入り口 写真8 参道(流鏑馬会場) 

境内にはいくつか説明版がありますが、詳しい神社宮司名のものには次のようにあります。

【日枝神社の由緒 新治郡新治村沢辺小野入会地
 日枝神社の本殿は、間口四・〇五M、奥行二・九七Mの三間社流れ造の建造です。伝承によれば、平安時代の初期の第五十一代平城天皇大同二年(八〇七)滋賀県大津市坂本町阪本山王(祭神大山昨命,、現日吉大社)を五穀豊穣の作神として、この地に勧請し創建されたものであるが、火災で焼失し現在の社殿は延享五年四月(一七四八)再建されたものである。
 境内にある石造灯籠(茨城県指定文化財)永正八年十二月二十日(一五一一)は本県最古のものであり、更に江戸時代中期 宝永五年十一月五日(一七〇八)正一位山王大権現の称号を賜り山の荘八ヶ村の総社となり、明治六年日枝神社と改められ別格郷社となる。
 一方弘仁元年(八一〇)頃より流鏑馬の神事が行われてきたと伝えられる。
 本殿再建で保存されてきた杉板棟札に墨書で次のように記されている。

  延享五歳   山の荘八ヶ村
 奉建之山王権現御宮一字天下泰平
 国土安穏氏子繁栄祈願所
四月吉祥日
       総社三別当    東城寺

 棟札の裏面に
  東光院祐智   願主 宝光院宗伝
  地福院定蛍   神主 和泉寺
大担那  東城寺邑 沢辺邑 小高邑
       大志戸邑 本江邑 長江邑
       粟野邑 小野邑 今泉邑
大  工  野州千本万右エ問
      (栃木県芳賀郡茂木町)
木  挽  常州小野 清助

と銘がある。
明治六年三月郷社別格となる。
大正三年三月二十六日
 供進指定第一五五号(榊に幣帛を供う)
昭和二十七年 宗教法人設立
昭和五十二年 避雷針柱を設置
尚 神殿内の御神輿は元禄十三年(一七〇〇)辰之六月高倉村紋右衛門寄付とある。

       平成八年三月    宮司 根本 亮 】

     
写真 9 日枝神社拝殿 写真10 石造灯籠(1) 写真11  石造灯籠(2)

写真9は神社を正面から拝んだものです。鳥居をくぐると左右に石造灯籠があります(写真10、11)。写真11の右手前の案内石柱には
【県指定工芸品 石造燈篭
この燈篭は花崗岩製で高さ二・三メートルを測る竿に永正八年(一五一一)十二月二十日の銘がある】
とあります。
そのほかにも流鏑馬の記念碑や写真10左に見える「祝征清全捷」の碑などがありますが省略します。

裏手にある本殿は、さすがに格調高いものですが内部には入れませんので、見事な彫刻だけを紹介します。

   
写真 12 本殿(1)  写真 13 本殿(2) 写真 14 本殿(3) 

境内には流鏑馬についての碑と説明板があります。(写真15)碑の左側に建っている説明板の文章を全文引用します。

 【流鏑馬祭の伝説
 昔、東城寺の守護神だった山王大権現(明治六年郷社日枝神社と改称)は、旧山ノ荘と称される小高、沢辺、東城寺、小野、大志戸、本郷、永井地区の総社であり、例大祭が旧暦四月の申の日(現在は四月第一日曜日)に斎行され、流鏑馬の神事が奉納される。
 起源については定かでないが、嵯峨天皇の弘仁元年(八一〇)の頃からと伝えられ、鎌倉時代になって今のような形になったと言われている。
 伝説によると、昔、山王境内に大きな幸加(合歓木)の大木があって一匹の大猿が棲みついていて、里に出てきて農作物を食い荒らし農民を困らせていた。供物を捧げてみたがいっこうに治まることなく、遂に東城寺から稚児を選び人身御供として差し出すことになった。それを知った大志戸甲山城主小神野従羅天は弓の名人志筑の市川将監を頼み、力を合わせて大猿を退治し農民の難儀を救った。
 この伝説を儀式化し、流鏑馬神事として日枝神社拝殿前の馬場で奉納し、旧山ノ荘の平安と五穀豊穣を祈願するものである。流鏑馬の主役は、壱物、従羅天、将監の三人で、祭礼前七日間東城寺寺駒ヶ滝で水垢離をとって、身を清め神事に望む。
 祭礼当日、境内の長い馬場には東城寺を除く六地区から流鏑馬の間戸が奉納され一、二、三の矢場に立てられる。この的は、大猿が棲んだと言われる幸加の木で作られる。祭当番より壱物が神社に送られると、従羅天が馬乗疾駆し将監に注進する。続いて御輿の渡御があり、まもなく従羅天の注進を受けた弓の名手将監が、地元当番のお揃い姿の若者を従えて緋の鎧もりりしく馬上より次々と矢をつがえて大猿になぞらえた幸加の的木を射る。この幸加の的木は幸せを呼ぶ当たり的として、学業成就や魔除けとなるものとして、地域はもちろん近郷近在の人々が争奪したものである
 この流鏑馬の神事は全国でも非常に珍しい行事であり、旧新治村の無形文化財、そして平成六年には茨城県無形民俗文化財に指定され今日に至っている。
      日枝神社 流鏑馬祭保存会】
写真15 流鏑馬の碑

さて、朝日トンネルです。この辺りから眺めた筑波山(写真15)と、朝日トンネルを背にして八郷盆地を眺めたもの(写真16)を最初に掲載します。遠くはかすんでいましたので、筑波山はあまりはっきりしていません。

 
写真16 八郷側からの筑波山 写真17 朝日トンネルより八郷盆地方を見る

写真18と写真19は、朝日トンネルの両口です。

 
写真18 八郷側からの朝日トンネル 写真19 小野から見た朝日トンネル

最後に、車で茨城県フラワーパークを出発してトンネルを通過している動画です。あまり解像度は良くありません。入り口の手前で少し停車していますが、これは私が写真18を撮影するために停車したものです。あしからず。全体で約10分あります。12:44ぐらいからがトンネル内走行です。

 
動画 朝日トンネル通行

今回も又、將門とは離れてしまいました。

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