飛行船遭難碑

 

取手駅の西口から西北西にほぼ一直線、国道294号バイパス(常総ふれあい道路)を行くと、約5Kmで住都公団戸頭団地があります。国道294号線との間にはさまれた大きな団地で、その3丁目「もくせい公園」の一角に、下の写真のような碑があります。

この碑は「殉難碑」とあり、銘文を読めば概略以下のようなことが記されています。

《大正13319日、海軍(霞ヶ浦航空隊)の第3航空船(飛行船)が横須賀での演習より訓練を終えて帰航途上、稲戸井村戸頭中ノ台上空にさしかかったとき、突如爆発して5人の乗員とともに炎上墜落した。付近村民は救助しようとしたが火勢猛烈で施すすべもなかった。我が国航空界多事ならんとするのとき、有志謀りて5氏の壮烈な殉職を後世に伝えんとこの碑を建てる》

この顛末と碑文の全文、傍らに立つ記念碑建立由来碑の内容、5人の略歴などは「取手町郷土史資料集・第二集」(取手町教育委員会・取手町郷土文化財調査研究委員会、昭和452月)の130ページ以下に詳しく記されています。

大正13年(1924年)は、どういった年であったかといいますと、関東大震災の翌年、宮澤賢治のデビューの年、わが国初のウイスキー蒸留所の出来た年、レーニンの死去した年、でした。

爆発墜落した飛行船は英国製SS 3号軟式(気球のようなもの、但し、推進器を備えているため球体ではなく流線型)で、可燃性ガス(水素)を使用していたため、こうした事故は多くおきていました。ちなみに、飛行船には他に、硬式(アルミニウム合金の流線型の骨組みの中にガス袋を入れたもの)、半硬式(ガス袋の回りにかまち補強材をつけたもの)などの形式があります。飛行船は暴風に弱くまた、可燃性ガスに当時は高価なヘリウムではなく水素を使用せざるを得ず、爆発の危険性が常にありました。1937年「ヒンデンブルグ号」の悲劇がよく知られ、その爆発炎上の瞬間は多くの死傷者を出してニュース映像として記録されています。その場面をクライマックスとした映画(1975年アメリカ)にもなっています。この悲劇を境に大量輸送機関としての飛行船の利用に終止符が打たれました。日本でもこうした事故があったのです。

しかし、近年は不燃性のガスを使って安全に宣伝飛行をしている姿も見られ、いろいろな用途に使おうとその無公害性が見直されています。

ちなみに、最近は不況のせいか見られませんが、この戸頭からすぐの利根川河川敷には某カメラメーカー等の宣伝飛行船の基地があって、係留してあったのも何かの縁でしょうか。

この碑は、当初別の場所にあって、戸頭団地建設に伴い現在の場所に移設されたように記憶しています。

もうひとつ、このとき二羽の伝書鳩が同じく焼死したため、鳩の慰霊碑もあります。

これらについて、少し違うことの紹介をします。

大正133月20日の「夕刊東京朝日新聞」一面には、《茨城の上空で飛行船爆破・物凄い火焔に包まれて畑中に墜落す・乗員六名不明》とありますが、7面では正しく五名になっています。また、《現場は魔の場所・航空機墜落これで三度目》なる特派員の記事もあります。しかも、同じく一面にトップ記事として、《第四十三潜水艦・佐世保港外で沈没・演習中暗礁に触れて・乗組員全部生死不明》とあります。同じ日にこうした大事故が同じ海軍で立て続けに起こっていたのです。「東京日日新聞」は《同じ日に空と海の椿事》と見出しを掲げています。なお、この新聞では触れていませんが、潜水艦は巡洋艦「龍田」と衝突したものです。また、少し触れているのですが、事故直後は生存者を確認しているものの、起重機(クレーン)がなく、引き上げられたのは31日後の418日で、乗員45名は全員犠牲となっています。

今回は、今までと違って、現代の史跡をながめて見ました。

 

常総の史跡インデックスに戻る

MTRホームページに戻る