涸沼(茨城県鉾田市、東茨城郡茨城町、大洗町)

「将門記」によれば、常陸を制して新皇となった将門は残敵貞盛を討つべく天慶三年正月中旬に5千の兵を率いて常陸の国北部那珂久慈郡に出動します。

【その目標は、文中にも明らかにされているように、宿敵であった貞盛と為憲の探索で、おそらくはこの附近に彼らが潜伏しているという情報を得たためであろう。私闘以来の将門の宿怨と執念を思わせる軍事行動だが、坂東を掌握してその足場を固めるべきその大事な時期に、貞盛らの探索に徒に日を重ねたことは、将門にとってやがて致命的なものとなる。(平凡社東洋文庫291「将門記2」梶原正昭訳注、218ページ補説】

都では、将門追討軍の編成が進んでいたのです。普通、この時に紹介されるのは、吉田郡蒜間之江(ひるまのえ)のほとりで、貞盛と源扶の妻を捕えて助け、和歌を交換したエピソードですが、このように、軍事的にみれば、何をしている場合かという塩梅でした。

という事で、吉田郡蒜間江に行ってきました。「吉田郡蒜間之江」とみえる「蒜間之江」が今の茨城町ほかにまたがる涸沼を指すことは間違いないらしく、諸書で異論がありません。

【この蒜間について中山信名は「亦日中ヲ比留麻ト伝ヘル義ニテ、亦暖湖ノ意ヲウケタルモノニヤタシカナラズ」(『新編常陸国誌』)と述べている。その他、涸沼の名称を近世文書等から拾うと、「蒜間湖」「乾沼湖」「日沼」「干湖」「蒜湖」「広浦」とさまざまである。中山信名も「粉々弁ジ難シ、タダコノ湖ノ水源、大橋村ノ土人伝ル所ハ、全ク比留麻ナリ、其水路ニテ笠間、長岡ノ辺、伝ヘ云ヘルモ亦同ジ、ヨク其語ヲ伝ヘタルモノナリ」(『新編常陸国誌』)と記しているから、「ヒルマ」の名は古代から近世までよく伝承されていたのであろう。】と、地元茨城町ホームページの中の「涸沼辞典」にあります。涸沼の自然については、ぜひこのページを参照してください。

本欄では、文章での紹介より写真での紹介に力を入れていますが、今度ばかりはちょっと困りました。というのは、航空写真ではないので、沼のほとりから涸沼の全貌をとらえるのは難しいのです。
というわけで、今回は大画面1枚のみです。

涸沼の風景
写真1 涸沼の風景

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