神田明神

明けましておめでとうございます。
本年も平将門を中心とした史跡めぐりを続けたいと思います。よろしくお願いいたします。
本年最初は、初詣をかねて神社です。

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 ビルの谷間に大きな鳥居が見えますが、ここは東京都総武線御茶ノ水駅から聖橋を渡って徒歩5分、神田明神です。

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 立派な御門です。
 この神社の創建についてはいくつかの説があるそうです。神田明神の公式ホームページをみると、次のような説明があります。

【神田明神は今から約1270年前の天平2年(730年)、武蔵の国豊島郡芝崎、現在の千代田区大手町将門塚周辺に創建されました。それから約200年後、平将門公が俵藤太に討たれ、その首が京都で晒されましたが、これを奪い返して塚を築き、葬りました。さらに、延慶2年(1309年)には将門公の霊をも相殿に祀り、神田明神と名付けました。天正18年(1590年)徳川家康は江戸を幕政の地と定め大規模な城下の造成工事を開始しました。元和2年(1616年)には現在の場所に移り、江戸城の鬼門の守護神となりました。その後、桃山風の豪華な社殿が築かれ、歴代将軍の崇敬厚く、江戸総鎮守として江戸の庶民にも親しまれてきました。
(神田明神ホームページより引用)】


 これ以外にも
@天平2年(730年)、武蔵の国造真神田臣が、豊島群芝崎村の地に社を建て、地祇(国神)大己貴命を奉ったとされ、この 社のことを真神田の社といっていたが、後に、これを略して神田神社と言うよなったと言う説。

A忌部族(海部族)が、今の房総半島に定住していたが、その人々の守護神、つまりは海神として安房神社に奉られていた神を、八世紀の始めごろ分社して、豊島群芝崎村の地に奉ったのが起源と言う説。

などがあるようです。

 この辺の伝説はいろいろな書に紹介されており、それぞれに面白く読めます。1冊ご紹介しておきますと、「史跡紀行 平将門」(加藤宦@著:新人物往来社昭和51110日初版)があります。

 しかし、伝説は伝説で、果たしてこの神社が本当に平将門と関連があったのかはわかりません。(何回か以前、東京都大手町のご紹介をしましたので、それとの関連で考えるのも面白いと思います)
 このシリーズで訪れている伝説地でも、たとえば前回の「子飼の渡し」のように史跡としての考察に耐える場所もあれば、まったくの伝説のみの地もあります。将門の伝説研究での基礎的文献であり、このシリーズでも大変参考にさせていただいている「将門伝説−民衆の心に生きる英雄−」(梶原正昭・矢代和夫 著:新読書社19751230日新版1刷)によれば、関東地方に広く将門伝説が分布するには、山伏、修験道の役割が大きかったと言われています。彼らが歩いて伝えた物語がその地に定着して伝説地となったのではないだろうかといわれます。これは、「将門記」が当初は琵琶法師の語り物であったのではないかとの説にも繋がり、「平家物語」との連想で興味が沸きます。
 いずれにしてもこの神社は、将門が生きている時代には何ら関連が無かったことは確かなようです。

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 最後に御本殿にお参りして初詣を終わりにします。
 聖橋近辺には「身近な土木」でもふれたいような見所が多く、近くには湯島の聖堂など、ゆっくり歩くにはとても良いところです。

【聖橋は、東京市により関東大震災の復興橋りょうとして、総工費724807円で28か月の歳月を要して昭和27月に完成した。神田川の美しい景観の中にあってこの橋のデザインには、とくに気を使い、橋長92.47m、幅員22mのモダンなアーチ橋が架けられた。橋名の由来は、北側にある国指定の史跡で江戸幕府の官学所「湯島聖堂」と、南側にある国指定の重要文化財でビザンチン風の建物「日本ハリストス正教会復活大聖堂」(通称ニコライ堂)の両聖堂にちなんでいる。聖橋は、近くの鋼ラーメンの御茶ノ水橋、アーチの昌平橋、万世橋とともに「東京の著名橋」に選定され、神田川の名所となっている。

(東京都 「聖橋の由来」より)】

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