古墳_霞ヶ浦の両岸(茨城県行方市、かすみがうら市)

茨城県には、余り知られているとは言えませんが、かなり多くの古墳があります。その中のいくつかは教科書にも掲載されているような有名な古墳ですが、開発のため姿を消してしまったケースもあって残念な状況になっています。

8ヶ月ぶりの今回は、霞ヶ浦を望む台地に築かれた古墳をその両岸に訪ねて見ました。最初は行方市(なめがたし)です。行方市は旧麻生町、旧北浦町、旧玉造町が合併して出来たものです。

三昧塚古墳(後円部から前方部を見る)
写真1 三昧塚古墳(後円部から前方部を見る)

これは前方後円墳「三昧塚古墳」の復元されたものです。後円部の方から前方部を見ています。リンク先の説明にもあるように、土取場として掘削されてしまいましたが、近年復元されたと言うことです。場所柄か、公園の名称に「農村公園」とあります。写真1中央の説明版は、写真3のようにほとんど読む事が出来ない状態ですが、その左の表示には、次のようにあります。

農村公園の標識 案内板 
写真2 農村公園の標識 写真3 案内板 

【三昧塚保存整備】
【歴史的文化遺産である三昧塚古墳を後世にに伝えるため、築造当時の姿に復元することを基本とし、明治大学考古学研究室協力の下、平成16年度~17年度に事業を実施した。
現況紛糾には、保存用のネットを張り、水平層状に版築盛土を繰り返し行い整形復元した。この時、現存部分周囲は人力で、欠損部分は機械で施行した。
墳丘表面については、芝により保護及び仕上げを行った。
後円部噴頂には、昭和30年に発見された埋葬主体部の状況図を白磁陶板により表現し、見学用通路として石段を設置した。
復元整備した墳丘の規模は、基段を含む全長88.2m、後円部径52.3m、前方部幅46.6m、後円部高7.0mとした。段築は、後円部2段、前方部1段とし、基底面には基段を設けた。
傾斜は、後円部1段目1:1.75(約29.8°)、2段目1:2(約26.6°)、前方部1:1.5(約33.7°)とした。
※上記のサイズ表記は、復元の際に設けた「基段」を含めた表記となっています。正式な古墳のサイズは、右となりのの案内板を参考にしてください。行方市教育委員会
行方市教育委員会 平成18年3月】

(引用者注:文字サイズ小部分は後に付け加えられている。しかし前述したように案内板は完全には読めない。困ったものです)
【行方市教育委員会 平成18年3月】

さて、上の文のある台上には古墳の模型があり、全体像がよくわかる様になっています。写真4から6がそれです。

    古墳模型三面
写真4 古墳模型三面

しかし、せっかく模型ではない実物大の復元古墳があるのですから、登って見ます。案内にあるように、基の古墳にはない見学用階段が設けられています。

古墳頂上から見た筑波山 古墳頂上から見た霞ヶ浦 
写真7 古墳頂上から見た筑波山 写真8 古墳頂上から見た霞ヶ浦 

写真7と8は、三昧塚古墳の前方部頂上からみた、筑波山と霞ヶ浦です。この日(2012年3月20日)は、良く晴れてはいたのですが、残念ながら遠くは少しかすんでいました。

三昧塚古墳埋葬主体部状況図1  三昧塚古墳埋葬主体部状況図2 
写真9 三昧塚古墳埋葬主体部状況図1  写真10 三昧塚古墳埋葬主体部状況図2 

この古墳後円部からは石棺と副葬品が発掘されていて、後円部にはその説明が写真9のような施設として作られています。写真10はその状況と説明です(真上から撮影した物ではないので少しゆがんでいます。ご容赦)。

三昧塚古墳(前方部から後円部を見る)
写真11 三昧塚古墳(前方部から後円部を見る)

もう一度、今度は前方部から後円部を眺めてみます。どうも私は前後が逆なような気がするのですがね、古墳を見ていると。

さて、対岸のかすみがうら市には、霞ヶ浦大橋を渡って行きます。この市も旧千代田町と旧霞ヶ浦町が合併して出来た市です。古墳が多いことでも知られています。

富士見塚古墳公園資料館 
写真12 富士見塚古墳公園資料館

かすみが浦大橋を行方側から渡ってすぐ右に折れて石岡市方面に行くと、富士見塚古墳公園の資料館があります。この裏手(写真12の左側)台地上にこれも前方後円墳の富士見塚1号墳があります。

細部は多少違いますが、先の三昧塚古墳とほぼ同じような規模の古墳で、説明版には次のようにあります。

【富士見塚1号墳
全長八十・二mの前方後円墳です。かすみがうら市内では最も大きな古墳で、対岸からも雄大な姿を見ることができます。
発掘調査により、後円部に木棺〔木をくりぬいた棺(ひつぎ)〕、前方部に石棺(せっかん)〔石で組み立てた棺〕が発見されました。盗掘にあっていたため、埋葬施設周辺が荒らされていましたが、後円部からは直刀(ちょくとう)〔刀身がまっすぐな刀〕、鉄鏃(てつぞく)〔鉄製のやじり〕、馬具(ばぐ)〔馬につける装具〕の破片、管玉(くだたま)〔つないで首飾りにする石製の筒状のもの〕、ガラス玉が、墳丘や周溝〔古墳の外側をめぐる堀のようなもの〕からは円筒形、朝顔形、家形、人物、動物などの埴輪が出土しました。
人形埴輪の盾(たて)持ち人、横髷(まげ)女性や、動物埴輪の鹿、犬、猿などは葬られた権力者の身近に存在したものを表現したと考えられます。
富士見塚1号墳がつくられた時期は、墳丘形態や埋葬施設、出土遺物などから五世紀末から六世紀初頭と思われます。(平面図略)】

出土した埴輪などは、資料館で見学できます。

また、「1号墳」という名称でもわかる様に、ここ一体には古墳が点在しており、「富士見塚古墳群」と呼ばれています。ちなみに、古墳は全国で約20万基あり、そのうちかすみがうら市には500基あると説明板にありました。写真13の左奥に円墳が見えています。

富士見塚1号噴
写真13 富士見塚1号墳

この古墳の前方部頂上からは、残念ながら富士山は見えませんでしたが、かすみが浦はすぐ眼下に見えて、文字通り雄大な眺めでした。写真14でご覧ください。

富士見塚1号墳上から霞ヶ浦を眺める
写真14 富士見塚1号墳上から霞ヶ浦を眺める

もう一つ、この古墳から少し北上したところに、珍しい遺跡があります。こちらは民有地内なので外から眺めるだけです。

太子古墳 
写真15 太子古墳

通りに面して生け垣が途切れて案内板が立っています。中央やや右寄りに口を開けているのが太子古墳です。案内板には次のようにあります。

太子古墳内部
写真16 太子古墳内部

県指定史跡 太子古墳(昭和五十二年五月二日指定)
この太子古墳は、かつては全長約六十メートルの前方後円墳であったが現在は後円部の横穴式石室が開口しているのみで、土地の人々は「太子のカロウド」と呼んでいる。明治二十三年に発見され、大正年間、大野延太郎(雲外)氏によって、玄室左右の壁面に朱の丸紋が多数描かれている装飾古墳として発表され、茨城県南部ではまれなる貴重な古墳として注目をあつめた。
横穴式石室は羨道(えんどう)・玄室をあわせて奥行三・八メートル、奥壁の巾一・三メートル、玄室の高さ一・三五メートル。石材は雲母片岩である。石室内部からは二遺体分の人骨と銀環、直刀、刀子、須恵器等が出土した。
時期は古墳時代後期である。
(図略)
かすみがうら市教育委員会】

大野延太郎(おおのえんたろう)とはいかなる人物なのか知らなかったのでいろいろ検索してみましたが、まとまったリンク先は見いだせませんでした。この資料に以下の様にありましたので引用します。
【大野延太郎(雲外)(文久3〜昭和13年【1863〜1938】)は、東京帝国大学理科大学人類学教室に図工として採用され、明治35年に助手となっています。精緻な図を数多く残している点が学史上評価されており、丹後地域においては、神明山古墳出土の滑石製模造品の図化・報告(「丹後発見の蝋石製諸品」『東京人類学会雑誌』第176号)を行ったことで知られています。大野は、明治40年4月14日に織田考古館を訪れています。このことは、稲葉宅蔵の日記「東園日誌」(稲葉家文書A28-004)に記されているほか、函石浜遺跡採集資料(京都大学綜合博物館所蔵)の付箋
からわかります。あわせて自著の『先史考古図譜』を織田考古館に贈呈しています。大野は、帰京後に東京人類学会例会にて「丹後地方旅行談」を発表しているほか、函石浜遺跡出土資料を図化し「埴瓮土器の名称と其遺跡に就て」という論文を執筆しています(『東京人類学会雑誌』第
254号・255号)。なお「埴瓮土器」の名称は、現在の弥生土器について大野が使用した名称であり、当時の学会で論争を呼んでいたものです。】

中まで入れそうでしたが、民有地と言うことで今回は外から眺めるだけにしました。

平将門を離れて古墳の訪問をしてみました。

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