子飼の渡し

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小貝川(こかいがわ)は古く「蚕飼川」と書かれ、「毛野川」「絹川」と書かれた鬼怒川(きぬがわ)とともに、その流域は将門の活躍した舞台と重なっています。この両河川は、筑波山西側をほぼ平行に南北に流れ、古代から氾濫を繰り返し、その河道が定まらない時代が長く続きました。将門の時代になってようやく開拓が進み、それとともに大穀倉地帯となる素地が築かれて行きます。(現在でも時に氾濫するのは、このホームページ別項でもご紹介しましたのでご覧ください)
写真はその小貝川の史跡、「子飼の渡し」跡です。これは写真手前、今の結城郡千代川村(旧宗道村)から写真奥、つくば市(旧筑波郡大穂町)への通りの個所にあります。
今でこそ立派な橋「子飼大橋」が架かっていて、知らない人であれば、こんな標識は見過ごしてしまいますが、将門の当時は、もっと川幅も広く現在千代川村のあるあたりは砂州であったといいます。

さて、この渡しが、「将門記」に登場します。
 将門とて連戦連勝というわけにはいかなく、何度か敗北を喫していますが、この「子飼の渡し」の敗戦は少し様相が違って描かれています。
 簡単に事の顛末を説明します。

野本の合戦(935年)で一族を将門に殺された源護は朝廷に訴えていましたが、朝廷はそれを認め将門を召喚します。すばやく上京した将門は尋問に対し反論し、その効果と朱雀天皇の元服祝いの大赦もあって無事帰郷します。
 しかし、叔父平良兼は積年の恨みを晴らすべく兵を子飼いの渡しに集中してきます。このとき、異様にも、平良兼の陣の前面には、将門の祖父高望王と父良将の霊像が掲げられました。これについて地元出身の衆議院議員にして将門研究家の故赤城宗徳氏はその著書の中で
「どうだ、これに矢を向けられるか━━━━という策略である。」
としています。(「新編将門地誌」154ページ、筑波書林 昭和62214日発行)
 事実、さすがの将門もその日は《将門のために明神いかりありて、もっぱら事を行へず、随兵少なきが上に、用意みな下なり》の状態で、良兼軍のされるがままであったといいます。まさか、生きている人ならいざ知らず、ただの絵に惑わされる将門でもあるまい、と、思うのですが、今から1,100年も前に生きていた人の気持ちは、なかなか推し量ることが難しいようです。
 良兼は勢いに乗り下総国豊田郡に兵を進め、将門の重要拠点栗栖院常羽御厩(くるすいんいくはのみうまや)及びその周囲の農民の家々を焼き払いました。将門の軍馬供給地への攻撃です。
 こうして将門の敗戦は妻子の受難にまで続くのですが、それはまた後の回にしましょう。

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ともあれ、このあたりは今でも、見る角度を変えれば、はるかに筑波山を望み、なかなかの絶景です。
 建物や遺跡があるところと違って、こうした何も残っていない、地形まで当時とは違っている、しかし史跡である土地は、むしろ想像力を精一杯たくましくすることが出来て、なかなか楽しいものです。

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