将門の首塚

 東京の地下鉄大手町駅C5出口をあがってすぐのところ、三井物産ビル東側に、このお墓があります。今でも花が絶えず、境内はきれいに清掃されています。、少し待っていると付近のビルに勤務すると思われるビジネスマンが手を合わせていく場面にも遭遇したりします。これが、「将門の首塚」と言われている史跡です。

 平将門の遺骸は、一時、前々回紹介した岩井市神田山付近に埋葬されましたが、追及の手が遺骸にまで及びそうになったため、武蔵の国豊島郡上平川村(今に平川町の名を残す上平川村は、まさにこの辺りであったとの説が有力です)の観音堂に埋葬しなおされたと言います。この観音堂は1201年の津波で押し流されて以来祭る人も無く荒れ果てていましたが、よからぬ事が相次いだため、1307年供養を行って霊を鎮めました。これが神田にある神田明神の前身で、平川村の将門塚もその管理下に入りました。
 後に徳川家康の江戸改造計画でこの辺りは大名屋敷となり、管理はその大名家にゆだねられました。
 さらに明治になってこの辺りが大蔵省になり、大正の関東大震災で焼けると自然省みる人も無く荒れ果てたままになっていました。するとまたもやよからぬ事が続出します。大蔵省に病人が多数出、現職の役人が多く亡くなり葬式が絶えず、怪我人もまた多く尋常ではありません。これこそ将門のたたりであるとして、昭和
2427日鎮魂祭が行われました。
 しばらく将門のご機嫌も良かったらしいのですが、昭和
156月、大蔵省に落雷、主要建物の炎上という事態が起こりました。
将門没後千年であったため、盛大な一千年祭が行われ故蹟保存碑が再建されました。

 その後長い戦争の時代をすぎて終戦を迎えました。終戦後焼け跡となった大手町一体を整理していたブルドーザーが突然横転、振り落とされた運転手は数日後に死亡するという事故が起こりました。その後もこの辺りでは事故が続出し、そのため作業員に不安が広がりました。
 しばらくして皆が忘れていた、昭和
15年に建てられた保存碑が発見され、またもや将門のたたりであるとうわさされました。そのためさすがの米軍(占領軍)も撤去できず、残されることになったのです。
 その後昭和
36年米軍からこの首塚の近隣が払い下げられてある銀行が旧参道に進出しました。ところが、この銀行では欠勤率が高くて困り、将門の鎮魂のお払いや、首塚を背にしない机の配列を実行するとそれが改善されたといううわさが流れたといいます。
 この地はそのようなわけでビルの谷間に取り残されたような形で存在しています。現在も大蔵省国税局の管理地ですが、いかに将門とはいえ国家が鎮魂の慰霊を行えるわけはないため、昭和
35年有志による「史蹟将門塚保存会」が結成され、昭和46年になって東京都の旧跡地に指定されました。
 今になってみると、怨霊を鎮める塚にビジネスマンが手を合わせていく大都会の一角が、こうして出来上がったことを知る人は少なくなってしまいました。
 将門の首はその後(昭和
503月)石塔婆の形で岩井市神田山の胴塚に送られ、怨霊の源であった首と胴との別葬はなくなり、今後はたたりも無いであろうといわれていますが、果たしていかがなものでしょうか。

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