将門塚2 (東京都千代田区)

2000年に東京都大手町の「将門首塚」を訪問しました。常総ではありませんが、将門関連としては欠かせない場所です。今年(2016年)久しぶりに再訪しました。

前回は地下鉄大手町駅からの訪問でしたが、今回は東京駅から地上を歩いてみました。写真1は大手町の信号のある交差点からの眺めです。いまこのあたりは再開発の真っ最中です。

少し歩くと写真2のような案内標識があります。官庁並みの扱いです。

 
写真1 大手町交差点(2016年1月15日撮影) 写真2 標識(2016年1月15日撮影)

周りは再開発中のビルで仮囲いがありますが、将門塚のところだけは写真3、写真4のような具合で以前の面影のとおりです。神田明神の名で「迎春」の看板がありました。

 
写真3 将門塚①(2016年1月15日撮影) 写真4 将門塚②(2016年1月15日撮影)

首塚の由来などは前回の記事に書きましたので、今回は写真だけにします。写真5、6は向かって正面にある「故蹟保存碑」です。この碑が正面にある配置というのが少し興味を引きます。この碑は、明治39年(1906年)建立で、表書は昭和になって蔵相を努めた河田烈、撰文は渋沢栄一の女婿で建立時の蔵相阪谷芳郎、書は「平将門故蹟考」の著者織田完之だそうです。

 
写真5 故蹟保存碑①(2016年1月15日撮影) 写真6 故蹟保存碑②(2016年1月15日撮影) 

そこで、「平将門故蹟考」(明治40年6月 参照したのは崙書房影印版昭和48年)を見てみると、下のような図が載っています。もとは古墳であったのです。

 
図1 大蔵省庭前古塚井池喬木石燈水盤現在図

その向かって右側にあるのが将門塚の碑(写真7)と石灯籠(写真8)です。この碑には「徳治二年」という文字があります。1307年です。

将門が討ち取られその首が京都に送られて獄門にかけられたが、三日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちたという伝説があります。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったため、村人は恐れおののいて塚を築き首を埋葬したのがこの場所であり、将門の首塚のいわれです。

しかしその後もしばしば将門の御霊が祟をなすため、徳治二年真教上人が、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったということが保存会の説明板にあります。

板石塔婆はなくなってしまいましたが、石灯籠は碑のうしろに現存するものがそうだといいます。図1にある灯籠とは少し形が違うようですが。

 
写真7 将門塚碑(2016年1月15日撮影) 写真8 石灯籠(2016年1月15日撮影)

将門碑の両脇には大小様々なカエルの置物やおもちゃがおいてあります。将門は妖術使いとなりガマにまたがって現れますが、さてなぜガマなのでしょうか。筑波山はガマで有名ですから、筑波山に縁の深い将門にガマの置物を供えるのでしょうか。現代では、首が京都から帰ってきたことに引っかけ、「無事帰る」と言うことになっているらしいですが。大手町のサラリーマンが外国に赴任する時など、ここにお参りに来るということです。

「無事帰る」とおねがいしているかどうかは分かりませんが、写真10のように、この日も大勢の参拝者がひっきりなしに訪れていました。

 
写真9 ガマガエル(2016年1月15日撮影) 写真10 参拝者(2016年1月15日撮影)

大手町はご承知のように、旧江戸城の大手門(写真11)にちなんでいます。大手門の前では、門をバックに大勢の外国人観光客が写真を撮っていました。帰りはぐるっと大手門から行幸通りにはいって東京駅に戻りました。

 
写真11 旧江戸城大手門(2016年1月15日撮影)

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