守谷城址

 今、茨城県北相馬郡守谷町守谷の守谷小学校のあるあたりは、平台山といい古くから守谷城址と呼ばれ、将門が王城として選定した相馬内裏の跡といわれて(「神皇正統記」)いました。ここから岩井に通ずる守谷街道を別名「内裏道」と称し、近くには京都より移したといわれる「愛宕神社」(愛宕中学校近く)、高野山に似せたといわれる「海禅寺」(高野小学校近く)などもあり、なんだかそれらしい感じもあります。
 下の写真の中央が守谷小学校の校舎で、右の松の下に「将門城跡」の碑(よく見えなくてすみません)が建っています。
 また、左にある「茨城百景守谷城址」の碑の前に「町指定文化財第1号 史跡」標柱がありますが、これはこれら碑が建っている小高い場所が、城の土塁の跡であることを表しています。この城は、土塁で囲まれていたらしく、このあたりだけに中世の昔のままで残っているのが確認されています。

 この写真とほぼ同じ角度で撮られた写真が、梶原正昭・矢代和夫先生の「将門伝説」22ページに掲載されていますが、その写真の小学校校舎は木造です。また、松もそのときのものは大木でしたがその後枯れてしまい、私が撮影したこの写真では新しい松になっています。
 さて、平将門は、上野国府を攻撃占領した後関東諸国を支配宣言し新皇を称して、皇城をきずいたと「将門記」にあって、その場所は同書によれば「下総の国亭南」とあります。これにはいくつかの説が唱えられていますが真偽及び位置は不明とされています。
 しかし古くからこの守谷城址がそうではないかという説がありました(「相馬日記」など)が、今はほぼ否定されています。ここは、中世以来相馬氏(今、福島県相馬市は、ここの相馬の地名が移ったものです)の居城で、その後土岐氏、堀田氏、酒井氏などが居た事があります。つまり将門の時代に存在したことは確定されていないのです。

 将門の内裏跡の伝説は多くありますが、それは逆に実際にはなかったため多くの伝説が生み出されたのではないかという説もあります(「茨城の将門」茨城新聞社)。
 それはそれとして、この地から東(小貝川方向)を望む景色は今でもすばらしく、眼下の守谷沼が往時の大きさを保っていれば、まさに茨城百景の名に恥じない場所です。城を築くなら、やはりこの地方ではここがいいなと思わせます。近くには北園森林公園もあり、ハイキングにも良い場所です。但し、季節によっては蝮(マムシ)に注意が必要です。

常総の史跡インデックスに戻る