国定指定史跡小田城

今回は平将門を離れ、時代を多少下ってみます。

このコラムの表紙に、写真「冬の筑波山」がありますが、その手前水田の中に、国指定史跡「小田城跡」があります。写真@がその本丸あとです。発掘調査が続けられ、昨年(2000年)12月には、最近の発掘調査恒例の現地説明会が行われました。

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常陸の国は親王任国なので国守は着任せず、次官の「介(すけ)」や「掾(じょう)」が在庁官人として地方行政を代行したことは、将門の項でも述べました。このうち常陸大掾は平氏が世襲し、一族を要地に配して大豪族となり、鎌倉幕府の御家人となったのは多気太郎義幹で12世紀以降、一族は常陸国の南半分をほぼ勢力下においたのです。
鎌倉時代の初め、本宗の大掾義幹と弟の下妻広幹は失脚、両者の支配領域へは守護の八田知家の一族が進出してきました。八田知家は北家藤原氏系下野の国宇都宮の支族で、茨城県下館市八田の開発領主となって常陸の国に関係しました。
この小田城は、八田知家の守護職遂行のために、筑波郡小田(現在の茨城県つくば市小田)に居宅を構えたのが初で、これ以後八田家の総領は小田氏を称するようになります。

小田城の概要について現地説明板を引用すると以下のようになります。

《小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約二十一ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約二ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。》

その本丸跡が写真Aです。

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水田面から少し高くなっています。

このあたりは昔、関東鉄道筑波線(現JR常磐線土浦駅から同じくJR水戸線岩瀬駅までの40.1Kmを結んでいました。大正7年、筑波鉄道として開業、昭和40年、関東鉄道筑波線となりましたが、昭和54年、筑波鉄道として再度独立。常陸小田という名で、ここにも駅がありました。残念ながら昭和62年、廃止されました。線路跡はサイクリング道路として整備が進んでいます。小田の駅もしばらく残っていましたが、今ではなくなっています)のディーゼル旅客車が走っており、ちょうど方形の史跡全体を対角線状に貫いていました。

さて、南北朝時代の騒乱期、現在の茨城県地方の戦闘は前半のそれは北部で、後半のそれは南部で行われています。小田城などはその南部の戦闘の行われたところなのです。
建武4年(延元2年:1337年)2月24日の小田城攻めあたりからこの地方に戦闘が及んできましたが、なんと言っても日本史に小田城の名が残るのは、北畠親房が後醍醐天皇崩御、後村上天皇即位の報に接して(延元4年:1339年)新帝に献上しようと「神皇正統記」を執筆した場所が、この城であることです。親房が小田城に入ったのはその1年前(延元3年)です。陣中にあり、激しい戦闘の合間に日本思想史に残る本書のみでなく、「職原抄」「二十一社記」などを撰するのは、かなりの努力が必要であったと思われます。参考書などは一体どうしたのでしょう。が、それのみならず、転戦した関城(茨城県真壁郡関城町関館)で康永2年(興国4年:1343年)「神皇正統記」の加筆修正まで行っています。

(注)カッコ内の年号は南朝の年号です。

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