六所塚(前方後円墳)

 茨城県結城郡石下町は平成の大合併で常総市となりましたが、われらが将門の本拠地、岩井(ここも合併で坂東市となりました)に近いこともあって、伝説が広く流布しているようです。
 今回はその中のひとつ、六所塚を訪問します。(とはいっても、写真は3〜4年前のものです。現状は確認していません)

六所塚古墳

六所塚遠望


 六所塚は、「平将門伝説」(村上春樹著 汲古書院 2001年)でも紹介されています。近くの台地を「御子埋」といい、平良持とその長男将弘の墳墓の地であり、また近くの権現塚は将門の埋葬地でもあったと言います。尤も、村上氏は注釈で【考古学から見れば、これらの塚を将門の時代に当てはめるのは無理である。しかし、地元では、それを信じて、長い間、祭祀を続けてきたのもまた事実である(同書227ページ)】と書かれています。
 本欄で私は、史実を追及するよりは伝説地探訪にスタンスをおいています。古墳に埋葬したということは、あながちありえないことではないと考えますが、今となってはそれを証明することは出来ません。評価はしないでおきます。しかし、「御子埋」という地名など、想像が広がっていくような感じがします。

六所塚古墳

 前方後円墳らしきイメージがなんとなくわかる形ですが、かなり荒れています。すぐ脇に説明板と「石下町指定文化財」という標識があります。

六所塚古墳説明板

 写真にもある説明板に以下のような記述があります。ここの説明はほとんどこれに尽きますので、全文を引用させていただきます。

【六所塚考(前方後円墳)】
【この地一帯に存在する墳墓は古墳時代からの
造成で、鬼怒川の右岸南に突出した沖積層の台地に構築されたいづれも規模の大きい円墳、前方後円墳などで、その数八十五基が確認され「神子埋」式或いは「御子埋」古墳群と称されている。
なかでも古墳群最大の規模を誇り六所塚と呼ばれるこの前方後円墳は祖先の眠る霊域として最も畏敬され現在も祭祀が行われている。
 この古墳と六所とは何等関わりはなかったが、平将門公の父良将公が延喜年間(九〇〇年代)に下総国府(国府台)から北総の国生に国府を移転し、そのときいずれの国府にも大国魂神社が祀られていた状況下、同等の「六所の宮」を祭祀し他所の国府とまったく同じ立場を確立したものであろう。
 この前方後円墳に勧請した「六所の宮」において例年祖先の霊を供養祭祀したので、いつとはなしに古墳も「六所塚」と呼ばれるに至ったのである。
 六所塚の祭祀は「カブキ祭り」と言われ灯火を消して闇夜に行う奇祭で盛大に行われていたが、享保年間(一七二四〜一七二九)における土地改良により祭りのための経費を捻出していた耕作地が不能となり終止された。
 また一説に六所塚は将門公の父良将公の墳墓であり、六所の呼称は将門公の父が皇統を引くものである故に、初めは御所墓と言われていたが将門公の陣没(九四〇)と共に逆賊の汚名が高まるにつれて御所塚(五所塚)は六所塚と改称されたのだともいう。東側の通称六所谷と称される地は将門公陣没後遺骸を引取り埋葬した地であると伝承され、かつては数多くの石の卒塔婆が出土している。
 時に鎌倉幕府第五代執権北条時頼公、将門公の供養思うにまかせぬことを聞かれ自ら執奏して勅免を受け、下総守護職千葉氏第十五代胤宗に命じて一大法要を営ませ、建長五年十一月四日(一二五三)建碑されたのもこの地であった(翌六年以後の建碑は二月十四日命日付)。
 住民、将門公の霊を祀り白膠木(ぬるで:引用者注=うるし科うるし属。高さ10メートルまでの落葉中木。かぶれるので注意)の木で剣、槍などを作り願い事を書いて霊前に奉納、綱火、煙火をあげ念仏衆により将門公を供養した祭りを「キッカブ祭り」と称し時代の変遷と共に形を変えながら今なお続いている。
 この一大古墳群も心ない人の盗掘や開発の波にあらわれそのほとんどは消滅した。
 郷土の誇る文化財として残存古墳の保存に皆様方の絶大なるご理解を願い六所塚の記とします。 石下町教育委員会 】  

 

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