関城跡

茨城県の玄関取手市で常磐線に接続する関東鉄道常総線に乗り、前回ご紹介した「小島草庵」のある下妻市を過ぎて終点下館に近く、20番目の駅「騰波ノ江(とばのえ)」で下車して徒歩20分に、国指定史跡「関城跡」があります。茨城県真壁郡関城町関舘字内舘の一帯です。
(順序としては、その前に同線「大宝」にある「大宝城」の跡を取り上げなければならないと思いますが、何しろ気まぐれ旅ですのでご容赦)

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現在はこの写真のように狭い区画がされていますが、昔は、東・南・西の三方が大宝沼に囲まれ、北部は洪積台地で、天然の要害に構築された8.5haの城郭です。

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 この城は、結城家二代朝広の四男朝泰が、結城家の領地の一部を相続して、地頭となり関氏を名乗ったのが始まりで、南北朝時代の初期、常陸における南朝の中心となった城です。
常陸の国の南北朝騒乱後半は、以前も触れたとおり、神宮寺城、小田城、関城などのある南部において展開されました。近々ご紹介予定の大宝城などもその一つです。この時代、関家は宗祐、宗政の時代でした。

1341年(興国2年)5月、準備を整えた室町幕府関東執事高師冬(こうのもろとお)は、前年入った瓜連城を出て小田城に迫ります。前回の攻防戦を教訓に、長期戦の準備がなされました。11月、吉野南朝で和平温和派が主流となり、主戦派北畠親房を小田城に迎えて戦う意義が無くなったとみた小田城主小田治久は城を出て降伏します。
直前、北畠親房は小田城を脱出、ここ関城に入城します。
12月、高師冬は、関城と大宝城を同時に攻撃し、連携を阻止しようとの作戦を展開します。この間形勢をうかがいつつあった下野守護結城親朝が、1343年(興国4年)8月北朝方として挙兵、ついに関城・大宝城は支援勢力を失い、戦いは終盤となります。
この段階の攻防戦で掘られた坑道(最初、北朝方が城攻めの為に掘ったが、関城方も察知し、城内からもが掘り進めて落盤させ、多数の圧死者が出たため、この作戦は中止された)が大正
9年に発見され(大宝城では昭和18年に発見)、現在でも入り口を見ることが出来ます。
北畠親房は、こうした激戦の合間にも「神皇正統記」に加筆修正をし、ついに完成させます。先立つ
1340年(興国元年)には「職原抄」、1341年(興国2年)には「二十一社記」を完成させています。実に旺盛な意欲を見せています。
攻防戦も、食糧が尽きて最終段階となり、
1343年(興国4年)11月ついに宗祐、宗政父子が戦死し、親房は脱出して吉野に帰還します。

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写真は、関城跡にある関宗祐父子の墓と伝えられる宝篋印塔で、その南側には宗祐と親房の偉業を讃える石碑があります。

 

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