下野国庁跡

 今回も少し常総の地を離れます。時代も行ったり来りでつながりがなく、なんだか良く理解できないとの声が聞こえてきそうです。言い訳ですが、平将門関連の写真を中心に撮り歩いていますので、なにとぞご容赦を。
 さて、天慶
2年(938年)1211日、平将門は兵を率いて鎌輪(今の茨城県結城郡千代川村鎌庭と言われています)の宿を出陣、下野の国庁を占拠しました。ちょうど国司の交代時期であり、新任の国司藤原弘雅、前任国司大中臣完行(おおなかとみのまたゆき)は戦わずして降参し、国印及び正倉のカギを差し出してのち、京に追われたのです。
写真:下野国庁跡前殿

 この占領は、直前の同年1121日に占拠した(このときは合戦があった)常陸の国府占領から始まった、将門関東制覇の戦いのなかでちょうど転換点となる事件でした。この後、上野国府を同様に占拠し、そこで新皇即位をしたとされているからです。
 「将門記」の作者の筆致もこの頃から微妙に変化し、今までの将門に対する同情的な態度はなくなってくると言われています。それが、誰か不明であるこの作者もまた、こうした国府などにかかわりを持つ官人であった可能性が高いという論拠のひとつともなっています。
 さて、下野の国庁は今の栃木県のどこにあったのでしょうか。
 文献のうち「和名類聚抄」では、「国府は都賀の郡にあり」とあるだけです。「都賀郡」は、現在の栃木市・小山市・鹿沼市・上都賀郡・下都賀郡を合わせた地域です。その中で、地名・田畑の形状・都からの交通の便などから想像して、いろいろな候補地が挙げられました。「栃木県誌」などは勝光寺説、その他総社説などがあったといいます。
 昭和
54年(1979年)8月、栃木市田村町宮ノ辺の発掘調査により、ここの宮野辺神社周囲が国庁跡であったことが判明しました。
 現在は、主要な建物のうち「前殿」が昔通りの材料・手法・工具を用いて復元され、写真のように保存されています。また、東西に藤棚があるのですが、この規模は脇殿と同じだそうです。
 この後ろ(北側)の森に宮野辺神社があり、発掘すれば「正殿(政庁)が存在するのは確実であるが、未発掘であります」と、「環境庁・栃木県」の説明表示板に、何やらもどかしげな表現で書いてあります。
写真:宮野辺神社

 なお、この神社は無形民俗文化財となっており、栃木市教育委員会の説明板が境内にあります。以下に引用します。
《無形民俗文化財 宮野辺神社の祭儀習俗:この神社の祭儀習俗には注目すべき古風が残存しており、歴史学・民俗学的に貴重なものである。 
 その貴重な古風とは、
.氏子組織としての「祭組」に、いわゆる<宮座>慣行をうかがわせるものがある。(草分けの家筋・株組織・頭屋制・大山家文書など。)
.祭式次第の中に<神前の直会>形式をとどめている。
.<神饌>の種類と、調理方法・食具の特徴(「粢」(しとぎ)餅・「玄米」食・祭場での料理・簡素なお膳など)等である。
                           祭儀は
1123日に行われる。
昭和五十九年三月三十日指定                  栃木市教育委員会》

 この神社のさらに北側に「下野国庁跡資料館」があります。もしお尋ねのときは、月曜・火曜と連休ですから注意してください。入館料は無料です。

 

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