高井城跡

前回は茨城県取手の将門関係を散策しましたが、将門に関係しない地も歩いてきましたので、ここでご紹介します。季節は春でしたので桜が咲いた頃です。

写真1 高井小学校跡

写真2 香取八坂神社1

今回はみずき野から「新道みずき野線」を東に歩きます。
「東京鉄骨橋梁」の工場を過ぎて少し行くと、「星光工業」という会社の門の前に写真1のような標識があります。「高井小学校跡地」とあり側面に「明治20年1月下高井尋常小学校として開校 昭和35年3月統合のため廃校」とあります。
「取手町郷土史資料集第二集」に【明治20年1月8日 小学校設置区域を改正、同時に下高井尋常小学校と改称す。(この頃までは永山小学校といったようです。ちなみに学校新築総経費375円とあります)同時に戸頭、市之代両分校を廃校して通学せしむ】の記述のあるところです。

交差点を左折してしばらく行くと写真2のような神社があります。「香取八坂神社」と鳥居にあります。

写真3 香取八坂神社2 

写真4 香取八坂神社3

明治14年の迅速図をみると「香取祠」と載っています。近所であったのに初めて来ましたが、写真4をご覧ください。なかなか趣のある参道ではないですか。少々狭いですが巨木に両側を挟まれて、何とも言えない風景です。尤も、今巨木があるからと言って、昔からこんな風景であったとは限りませんが。

お隣に、高源寺というお寺があります。ここには写真5のように「地蔵ケヤキ」があります。ケヤキの洞の中にお地蔵さんがいますが、今は厳重な柵が周囲を取り巻いていて近付けません。ケヤキがお歳を召して危険なのだそうです。
この地に住まいしたころ一度来たことがあります。その時は子供がこの中で遊んでいました。そばの案内板に左のようにありました。推定樹齢1600年とは驚きです。
茨城県指定文化財
天然記念物地蔵ケヤキ
指定年月日 昭和14年3月
推定樹齢 約1600年
幹 周 囲 10メートル
高    さ 約15メートル
言伝えによるとこのケヤキの大きな洞は寺が火災にあった際に焼けたものといわれます。いつの頃からは不明ですが洞内には干育て地蔵菩薩がまつられました。このお地蔵さまは霊験あらたかで、洞をくぐり詣でれば安産疑いなしと、子持ちの婦女子が遠くからお参りにきます。

取手市教育委員会

写真5 地蔵けやき

地蔵ケヤキ 案内

この通りは古い民家が並んでいますが、先の迅速図にも家屋の表示があるので、旧岡村(前回紹介したところ)から牛久方面に行く街道であったのでしょう。少し行くと左に下る坂があります。小貝川堤防に着く直前に、写真6のような風景があります。パノラマで紹介します。

写真6 高井城跡

ここは、写真6中央の案内板によると、高井城の跡であるといいます。今は公園になっています。写真右手から来ましたので、左手が小貝川です。

写真7 高井城址公園案内図

写真8 公園内1

写真6の左手から、林の中に上っていく道があります。写真8のような風景です。頂上に平らなところがあって、何となくこちらで紹介している守谷城址のような雰囲気があります。写真9の右手に見える案内板を写真10に掲載します。文字が小さくて読めないかもしれないので、案内版右側縦書き部分を載せておきます。(多少段落等を変えてあります)

写真9 高井城址2

写真10 高井城跡案内版

【高井城は、小貝川を北に臨む半島状台地に築かれた、取手市内でもっとも大きい戦国時代後期の城跡である。城跡全体は約200メートル四方の規模で、その内部は、主郭とそれに付属する二つの曲輪からなる中心部と、その外側に広がる外郭から成り立っている。標高は21メートル、小貝川に沿った低地からの比高は約10メートルである。

現在、城跡一帯は大部分が宅地となり、外郭遺構は部分しか残っていないが、城の中心部である主郭とそれの伴う曲輪は良好な状態で保存されている。
主郭は、南北65メートル東西45メートルの正方形に近い形で、四方に土塁がめぐらされている。主郭南辺と西辺の土塁壁上に虎口が、南東端には櫓台が残る。主郭南辺と東辺の土塁は、主郭内でもっとも高く築かれて、その外側に堀が設けられている。主郭西辺には、半円形の張り出し部分と虎口、それに虎口外側には桝形状遺構がある。主郭内は東側から西側に傾斜しており、土塁に沿って排水溝と思われる遺構が確認されている。主郭と第2郭、城外への連絡方法は、桝形になっている主郭西側虎口を出て、上段の通路状遺構を北に進むと下段の通路状遺構へ下る通路にあたる。この通路をさらに北に進むと桝形状遺構を経て第2郭にいたり、この通路を折り返す形で南に進むと、下段の通路状遺構から城の搦手である城跡西側の谷津にいたる構造になっている。第2郭は、土塁を挟んで主郭の北側に位置している。第2郭の西辺には、曲輪の下方に小規模な堀跡と思われる腰曲輪状の平坦面が築かれており、第2郭西側の守りを固めている。第3郭は、堀を隔てて主郭の南側に位置している。第3郭は、曲輪の東部分が消滅しているが、西辺と南辺には土塁の痕跡とその外側に堤の痕跡、南辺の土塁痕跡の東端には櫓台状の遺構がある。また第3郭北西斜面には平坦面が築かれ、井戸跡がある。

高井城がいつ頃築かれたかはあきらかではないが、高井の地名は建武3年(1336)11月22日付相馬親胤宛「斯波家長奉書」に大鹿村(現在の白山地区)とともにみえ、この時点で相馬氏の知行地であった。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めの際、後北条氏とともに下総系相馬氏が滅亡したため、高井城は廃城となりその役割を終えた。】


というわけです。このほかの部分はこちらでご覧ください(サイズが巨大です)。高井城というのは土浦市上高津(国道6号線バイパス横)にもあります。もっとほかにもある様です。

取手市には写真11のような「埋蔵文化財センター」があります。時々特別展をしていて、なかなかユニークな切り口での展示を見ることができます。わが街にもほしいところです。

写真11 取手市埋蔵文化財センター



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