谷和原 普門山「禅福寺」

織田完之(オダカンシと読むようです)の著「平将門故蹟考」(明治40年 碑文協會:私の持っているのは昭和48年崙書房による影印版)に、【北相馬郡筒戸村禪福寺の傍らに古き石の卒都婆あり文字なし相馬氏の墓標なりと傳ふ将門の母なりや否尚考ふへし又同寺に安置せる十一面観世音等身の木像は平将門渇仰する所なりと云えり寺領十三石八斗余の朱印ありたり(漢字を一部簡略)】とあります。以前、その前を通ったことはあったのですが、何しろ今でも車がすれ違うのには都会の広い道になれた人では難しいぐらいの場所なので、駐車するのもはばかられた記憶があります。今回、やはり見ておかなければならないと思い直しましたので、このお寺を見てきました。

所在地は現在では、つくばみらい市となっていますが、元筑波郡谷和原村筒戸で、その又元は北相馬郡小絹村筒戸です。もっと前は、「守谷町の相馬領内にあった」(「守谷町史」昭和60年100ページ)ようです。つくばエクスプレス車両基地のすぐ近くです。

禅福寺参道

禅福寺山門

写真1 普門山禅福寺

写真2 立派な門です

「禅福寺縁起」(私の参照しているのは「関東中心平将門伝説の旅」昭和62年稲葉嶽男著、発行)に「人皇六十一代朱雀院御宇相馬小十郎将門平親王承平元辛卯年成建立」とあるように931年、平将門が建立したと云われているようです。「相馬小十郎」は「相馬小次郎」の誤りだと思うのですが、参照した本の誤植か、「縁起」の誤りか、定かではありません。「将門傳説」(梶原正昭、矢代和夫著、新読書社1975年)70ページには、同縁起を引いて「相馬小次郎」としています。
ともあれ、平将門と何らかの因縁のあるお寺でしょう。もう一つ、創立は上にあるように承平元年(931年)とされていますが、開山は貞和元年(1345年)と、かなり時が隔たっています。ですから、伝説のできるににふさわしい時間があったともいえます。

本堂

九曜星紋

写真3 本堂です

写真4 紋は九曜星

本堂は新しく、コンクリート造です。近寄ってみると写真4のように紋は九曜星です。大きな丸の周囲に8つの丸が描かれる九曜紋は、羅喉星(らごうせい、大日如来)、土曜星(どようせい、千手観音)、水曜星(すいようせい、勢至菩薩)、金曜星(きんようせい、虚空蔵菩薩)、日曜星(にちようせい、不動明王)、火曜星(かようせい、八幡大菩薩)、計都星(けいとせい、地蔵菩薩)、月曜星(げつようせい、普賢菩薩)、木曜星(もくようせい、文殊菩薩)を表していると云います。(中央が土、天が水、右回りに羅、木、日、火、計、金、月とされます)
元々は曼荼羅を簡略化したようで、天地四方の守護仏神信仰と、星を崇拝する妙見信仰との関わりから多くの武士に用いられた紋だと云います。板東市(旧岩井市)にある国王神社でも同じ紋で、北極星(妙見菩薩)を加えて十曜星のところ、北極星は天帝であるからおそれおおいとして九曜にしたと云われているそうです(「関東中心平将門伝説の旅」)。
今のような意味での家紋かどうかはわかりませんが、将門の紋は「繋ぎ駒」であるとされ、ときに九曜星とともに語られます。いずれにせよ、妙見信仰周辺の伝説で、将門を祖先とするとされている相馬氏や千葉氏などにもこの九曜星紋(十から七まで含む)をもつ武将が多くいます。
そして、この紋が分布する地域の範囲と将門伝説分布範囲とは重なるところが多いとも云われています(「将門傳説」75ページ)。

将門がなぜ妙見信仰するようになったかは、「禅福寺縁起」のほか「源平闘諍録」にも見え千葉氏が伝承してきたといいますが、小さな子供が将門の合戦での窮地を救い(渡河地点の浅瀬を教えてくれたり、敵の矢を拾ってくれたり、将門が疲れると代わって射てくれたり、なかなか細々と働きます)名をたずねると妙見大菩薩であるといい、十一面観音の垂迹であると名乗ったという話です。以後、将門は信仰を深くするが、のちに妙見さんの方は、将門が奢ったとして離れていくのがあらすじです。
禅福寺には十一面観世音等身の木像があると云うことも、かなり強い将門伝説となる何かがあったことを想像させます。

境内

お地蔵さん

写真5 境内(1)

写真6 境内(2)

境内は古さを感じさせ、写真5の左手が将門塚と「関東中心平将門伝説の旅」にあります。また、小さなお地蔵さんが6人と少し離れて大きなお地蔵さんがいます(写真6)が、何となく守谷高野の海善寺にある七人将門を思わせます。

なお、このあたり一帯は筒戸城跡地とされ、戦国時代の永禄2年(1559年)築城、天正17年(1590年)落城し、以後は廃城となったという説明板が近くにあります。その地図を見ると、本丸と二の丸のちょうど間に禅福寺があったとされています。

筒戸城跡

写真7 筒戸城跡説明板

 

 

常総の史跡INDEXにもどる