神宮寺城

前回小田城を登場させたので、今回は少し時代が逆転しますが、北畠親房が小田城に入る前にさかのぼって見ます。

当時は、今にいう南北朝時代でした。この点の説明を前回は抜かしておりましたが、教科書的な記述を出来るだけ避けている本ページをご覧の皆様は、すでにご存知のことだと思いますので、そのまま続行します。

茨城県地方においては当初南朝方の勢力が勝利していましたが(前回も触れたように、このころの戦場は主として茨城県北部方面)、ゲリラ的な活動や武力の増強に勝る北朝軍(佐竹氏など)が次第に支配的となり、建武(北朝年号)4年(1337年)ごろになると陸奥の国まで平定されます。
その劣勢を挽回するため延元(南朝年号)
3年(1338年)9月、北畠親房は義良(のりよし)親王(第97代後村上天皇)、宗良(むねなが)親王ら南朝軍とともに伊勢の大湊から海路陸奥の国に向かいます。しかし、【九月ノハジメ、トモヅナヲトカレシニ、十日ゴロノコトヤ、上總ノ地チカクヨリ空ノケシキオドロオドロシク、海上アラクナリシカバ(引用は「日本古典文學大系87 神皇正統記 増鏡」岩波書店 のうち「神皇正統記」190頁〜)】と、嵐に遭遇してしまいます。他の記録から、ここは天竜灘と言われていますから、まあ、伊勢に近いほうです。【アマタノ船ユキカタシラズハベリケルニ、御子(義良親王)ノ船ハサハリナク伊勢ノ海ニツカセ給。(同)】ですから、無事戻れたというのです。ところが、【同ジ風ノマギレニ、東ヲサシテ常陸國ナル内ノ海ニツキタル船ハベリキ。】なんとも不思議なことに、親房の乗った船は茨城県霞ヶ浦の沿岸、東条庄に漂着したのです。当時の霞ヶ浦は内海で、今の地理で考えるほどそれ自体は珍しくありませんが、同じ嵐で遭難して東と西へ別れたことを、親房も不思議がっています。【コノニツノフネオナジ風ニテ東西ニフキワケケル、末ノ世ニハメズラカナルタメシニゾ侍ルベキ(同)】

当時の信太郡東条浦、現在の稲敷郡桜川村は南朝方拠点の1つでありました。上陸した親房はそれらの勢力とともに神宮寺城にはいり、ここを東国経営の拠点とすべく活動を開始しました。
この神宮寺城は稲敷郡桜川村大字神宮寺にその跡が現存しています。国道
125号線を千葉県佐原方から北上し、天台宗神宮寺の手前を県道江戸崎・神崎線に入って500m程西の南側の林の中です。
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桜川村教育委員会の表示板があり、県指定史跡であることがわかります。
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(しかし、ここは民家の所有地であるようで、私も写真をとってしまってから気がつきました。すみません。)

内部は竹やぶで堀跡と土塁があり、なにやら碑が立っています。
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これは、大正4年に建立された「北畠准后唱義之所」の碑です。
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さて、この城によった親房ですが形勢思わしくなく、小田氏の警護を受けつつ阿波崎城(稲敷郡東村阿波崎)を経過して霞ヶ浦を渡り小田城に入城しました。
これで前回に続くのです。

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